「自分にとっていちばん退職する決断になったのは、パソコンのマウスです。パソコンを使うときに、普通の事務の方だとキーボードがメインになると思うのですけど、設計事務所は絵を描いたりするので、マウスがメインなのですよね。マウスを使うときに、普通の机だと肘が浮いていますよね。これでずっとマウスの操作をしていると、夕方の3時ぐらいからもうこの(腕の)へんがパンパンになってくるのです。それでボールペンで字が書けなくなって、もう5時ぐらいにはペンでないと字が書けないという感じで。それぐらいすごくしんどかったのですよね。これはだめだなと思いました)。」
「(自分だけ)早く帰るのがつらかったです。皆、(仕事が忙しいときは職場に)寝泊りするのも当たり前でしたので、そういうなかでただひとり、病気ということが理由で早く帰るのがつらかったです。しかも自分の下の人たちが、理由は頭でわかって納得できていても、感情として納得できない部分がすごくあると思うのです。たぶん、“いづらい”というふうになっていくのだろうなと思います。
やっぱり“いづらさ”というのはあるのですよ。それは、解決されないな・・・とすごく思いますね。自分がそういう心理状態で(職場を)見てしまっていたのかもしれない、自分の一方的な考え方だったのかもしれないのですけど、やはりそれだけではないなと思いました。企業側ももっと病気に関する正しい知識を学んでいただく機会や時間が必要なのだろうな・・・というのはすごく思いました。」
「3ヵ月ごとのミーティングにさらに定例会議が入ってきて、それが主治医の外来日とばっちり重なっていました。『その日は無理です。そのとき休むこともあります』というようなことを言ったのです。そうしたら、『えー?』という反応がものすごくありました。
通院は患者さんにとって心のプレッシャーがすごく多いのです。やはり悪い話も聞かなくてはいけなかったり、本当に一日緊張して待合室で長い間待って、主治医と話をしていろんな情報を言って、がっくりしたり、今日はよかったと思ったり、そういう精神的なぶれをものすごく感じながら、午後には職場に戻って来ているのです。それまでしているのに、なんでそういうふうに言わなくてはいけないのかな・・・ということが、その職場に居ることの違和感になっていきました。」
「そんな気持ちをずっと抱え込んでいたときにミーティングがあり、わりと長いスパンの仕事が入ってきました。3年、5年単位の継続契約のもので、『これ誰を担当にしようか』という話になったときに、『これは桜井さんのクライアントだし、桜井さんにというつもりだよ』という話でした。しかし3年、5年は責任がもてないかもしれないので、『今の自分には、どうなるかわからない』と正直に言ったのです。半年単位でしか計画が立てられない。この先どうなるかわからないから、5年間ひとりでやってくれと言われたら無理かもしれない。本当にわからない、神様しかわからない。それをやってくれなくては困ると言われても、『できません』と言いました。そうしたらリーダーから、『工程が立たない人間は困るんだよね』と言われたのです。工程、立たないですよね、がん患者さんは。皆、工程なんか立たないのです。それを言われてしまうと、『もうこれは決め言葉だな』と思いました。そういう考え方しかできないのだったら、ここにいても自分はもう苦労するだけだ、この先、どんなにやってももう無理だ、と思ったのです。それで、『じゃ、もういいです。私はもうそういう生き方はできないし、そういう責任ももてないから、それだったら辞めます』とその場で言いました。それで『じゃいつ辞める?』という話になり、『きりよく12月にしましょうか』という話で、12月に退職しました。
幸いにしてそれまでずっと働いていたので、いちおう蓄えはありました。それと、結構簡単に再就職できるかなと思っていたのです。結構難しめの国家資格もとっていたので、その資格を生かしながらでもいけるだろうと思っていたのですが、やはり景気も悪くなっていましたし、あと年齢が37歳だったので、すごく悩みました。でも、なんとかなるという感覚はありました。」