「当時は、患者が容易に情報を得られるような(インター)ネットなどもなく、本も少なかったです。
で、当時、愛知県には緩和ケア病棟というものは1つもない時代で、市民運動で、『愛知にもホスピス病棟、ホスピス緩和ケア病棟、すべての病院でホスピスケアを』という運動を起こされた愛知ホスピス研究会という会がありまして、その運動がきっかけで、愛知県にも緩和ケア病棟を推進する委員会のようなものができたのです。そして、ホスピス病棟の建設に結びついて、解散になりました。その後、そのメンバーが、東海ターミナルケア研究会という会を作ったのです。私もそのお手伝いをさせていただきました。
医師や看護師や医療スタッフが対象のターミナルケア研究会にも、患者さんが参加されるのです。その頃は、がんのセミナーや患者向けのイベントなどがあまりなかったのです。だから、何か情報のほしい患者さんは、ターミナルケアであってもなんであっても、“がん”と名前がつくと参加する、そういう傾向がありました。けれどもみなさんターミナルケアの情報がほしいわけではなく、ここへ来たら患者さんがたくさん参加しているのではないか、何か情報があるのではないかと、そういうムードがありましたね。
そうした方々と、小さな集まりを繰り返しているうちに、患者さんの要望がいろいろ出てくるのです。だから私は、父のときに、父の思いを知ろうともせず、自分自身の独りよがりで、かえって父に辛い目を味あわせてしまったという贖罪の思いがありますので、『何かお役に立ちたい』、そういう純粋な、率直な思いがありました。
もう1つは、やっぱり、どこか1つ拠点がほしいよね、とか、いろいろな思いがありました。患者さん同士が集まってお話をしていると、『あぁ、今月も集まれたね、良かったね、来月が待ち遠しい』みたいなことになって、集まれるだけでうれしかったのに、集まれることが普通になってくると、今度は、例えば、『乳がんの私と前立腺がんのあの人といったい何を話せばいいの?同じがんの種類(の人)同士で集まらないと意味がないよ』というような発展的な意見が出てくるのです。
がんの種類別に集まりたいということですと、母数を増やさなければいけないという問題もあります。それがなかなか難しくてですね。草の根で、1か月に1人増えたとか2人増えたとかでは、がん種別の患者会もなかなか成立していかない。いざやってみたものの、1人ぼっちのがん種の方がいっぱい出てきて、1人でどうやって意見交換をするんだぁみたいなお話もあるのです。」