「入院生活では、最初のうち、すべての入院患者さんから、いじめられたというか、非難されたというか、結構辛い思いをしました。なぜかと言うと、私よりもみんな年上の方ばかりだったのです。当然働いたぐらいで(経験をして)、この病院にたどり着いている方ばかりなのです。そういう方々から見ると『大学生で、ただ遊んでいてこんなところに入って来て、ふざけている、親不孝だ』ということで怒られました。誰も相手にしないどころか、怒鳴りつけられたりしまして。一人で辛い感じだったのです。
そんな中、1〜2週間経った時ですかね。一人のダンプの運転手の方が私に声をかけてきました。誰から聞いたのか知りませんけれど、私が始発終電で3年間ずっと大学に通い続けているといった(話)を聞いて、『そういう人の気持ちが分かる。俺もそういう仕事をしてきたから』といった感じで理解を示してくれて、話す人ができて、少し心が和んだという感じです。
そのあと、気の遠くなるような長い時間が過ぎ去っていくのですけれども。毎日自分との対面です。なぜここ(病院)に来てしまったのだろうといった感じから始まりまして、『自分は病気じゃないんだ』とか、『みんな、先生とか看護婦(師)さんすべての人が寄ってたかって、自分を病気にして、ここに隔離して、自分の自由を奪って何かしようとしているんだぁ』みたいに思っていたのです。
そんな中で、なぜここにいなければならないかということに気づいてくるわけです。ここにいるということ、(その)事実自体がもう精神病なのだというふうに理解していきました。」
「当時は統合失調症ではなくて精神分裂病です。病名を私に告げた人は、当時誰もいません。聞き出せたのは、退院して、仕事に就いて、通院しながら、5〜6年経ってからですね。
なぜかは知らないのですけども、その当時、自分は精神分裂病だと分かっているのですよ。自分の症状から見て、『これは精神分裂病ですね』と先生に詰め寄っていて。先生も看護師さんも誰も私に対して何も答えませんでした、あの時に。ただ先生が言ってくれたのは、『あなたの病気は原因不明の難病で、世界中の人が真剣に治し方を研究しているんだけれど、いまだかつて誰も見つけられていない病気なんだ』と。そういうふうに説明を受けました。
このような入院生活ですけれども、私にはこの病院を絶対に出なければならないというか、絶対に出たいと思う理由がありました。それは経営学の先生との約束です。その先生の講義が4月から始まりまして、その時に『もう4年生なのだから、私の単位も取っているのだから、試験日を教えるからその日に会いましょう』ということで別れていました。その先生との約束を守りたい、その試験日に必ず行かなければならないという男と男の約束だったので、これを絶対守りたいという一心で、退院を目指して、最終的に退院できたのだと思います。気の遠くなるような時間と向き合って、毎日過ごす中で、それが、1つの自分の希望の光だったのです。」
「いちばん最初の入院生活で、病院の中でもわめいて暴れているわけですよ。たぶん、数週間は続いたと思うのですけども、これを自分で止めたのです。薬が効いたというのもたしかにそうなのですけれど、薬(だけ)ではないのですよ。先ほど申したように、ダンプの運転手さんが、私にいろいろ注意してくれたのです。
要するに誰も(私の)相手をしませんから、わめいてしゃべって、相手をしてもらっているのは看護師さんなのですよね。看護師さんは、当然、家に帰れば良いお母さんであり、主婦なのですよ。で、『お前、分かっているか』という感じで、『お前はここでわめいて騒いで寝ればいい。でも看護師さんは違うんだぞ。ここで仕事して、家に帰ったらまた親業もやらなくちゃいけない、家事をやらなくちゃならない、大変なんだぞ。分からねえのか』と言われたのですね。で、『あ、いけないことなんだ』と思って止めました。
そういったことで、騒ぐということが無くなったのですけども、3か月経った8月20日前後に、『これで退院しましょう。これからは、通院しながら治していくんですよ』と話されたのです、先生に。
5月20日前後からずっと帰りたくてしょうがなかった家にやっと帰ったのです。でも、先生が言ってくれたのですが、何一つ自分では解決していないのですね。自分の病気の原因とか、自分の病気を治す自分の方法とか、ぜんぜん分からないわけですよ。主治医の先生は、『社会には、精神病の人も多く生活していて、社会生活を送るには一定のルールがあって、こういう許容範囲にこう収まらなければならないんですよ。で、あなたはもうそのことが分かっていますよね?』と言われたのです。『はい』と言ったものの、何も分かっていなくて……。
当然、その当時は強い薬で症状を抑えているわけで、もう一日中眠くて眠くてたまらない。数時間起きているのがやっと、みたいな感じで…、そういう中で(大学の)卒業式を迎えられました。」
「入院していちばん驚いたのは、トイレでしたね。仕切りも扉もないのですよ。保護室から出て、一般の部屋に移って、当然トイレに行った時に驚いたわけですよ。『またえらいところに来てしまった』と、これからどうやって生活していったらいいのだろうなぁと感じましたね。
次の日に、ナースステーションに院長先生がいたのです。で、(ナースステーションに)ずけずけ入って行って、院長先生の手を引っ張って連れてきたのです、トイレにね。で、先生に一言、『このトイレで先生はトイレができるんですか』と言ったら、先生が『私はできませんね』と言うのですよ。それは変ですねという感じで、だったら私もできません。どうにかしてくださいと、先生に訴えたわけです。そしたらまあ、良い先生だったのでしょうね。その日のうちに仕切りと扉がついて、『これで大丈夫でしょう?』と言われまして、ちょっとひと安心でしたね。
退院後しばらくして通院している中で、多くの精神(科)病院がトイレに扉とか仕切りを設けないという理由は、だんだん分かってきたのですけども。それはそれとして、まあなんとか改善してもらいたい一つのことだったですね。」
「保護室がまたなかなかで……。ほんと無機質な、何もないところで、落書きだとかがいっぱい書いてあって。この時に思ったのは、これは精神障害者の血と汗と涙が、そこに描かれていて、何かたまらない感じでしたね。本当に。すごいところに来てしまったなぁみたいな感じで…。
はっきりは分からないのですけども、(保護室には)1週間ぐらいはいたのではないかと思いますね。」