「(最初の入院から)5〜6年後に初めて、先生も何回も変わっているのですけども、聞いてみたのですよね。そしたら、その時には病名が変わって統合失調症になっていて、『統合失調症ですよ』という話になって、その統合失調症の説明を受けたのです。その時は、分かっていましたから当然確認したというか、『その通りだったんですね』みたいに思っただけです。」
「自分としてはもう分かっていたのですね。中学時代に相当ないじめを受けていまして、このままだったら、将来は、薬を一生飲んでいかなければならないような人生になるのだろうと思っていました。なんと自殺してもおかしくないような状態で…、当然学校にも行きませんでした。行き場がない中で、一人で生き抜いてきたという感じです。
なぜ自殺しなかったかというと、やはり、世間の人というか、自分の親戚とかそういったところに並びたい。『その人達と同じテーブルにつきたいんだ』という強い思いがあって、『それができるのだったらもうすべてのことを引き換えてもいいんだ』みたいなことを思い込んでいました。その同じテーブルというのは、ちょっと説明すると長くなってしまうので説明できませんけれども、その一心で生き延びてきました。
そんなこともありましたので、精神(科)病院に初めて入院した時に、当然やはり落胆はありました。『自分はだめなのかなぁ』みたいなことを思いましたけども、諦めというのはなくて、むしろそれが自分の人生ならば、自分のこの人生を全うしていきたいな、全うしてやるんだみたいに決心したというか決意があったと、そんなことを憶えています。
入院中に助けを求めています。親ではありません。父親は、『しっかりやって来い』というようなことを言ってくれただけで、見守ってくれましたね。で、誰に電話で助けを求めたかと言うと、大学の英語の先生です。この先生は大学1年の時にお世話になっていた先生で、また再履修でも3年次にお世話になった先生です。
この先生は英文学の先生で、英文学に現れてくるような精神異常の世界というか、精神的な極限の状態の人間がどういうふうになるかというようなことを、授業中に私達学生に話してくれていた先生です。この先生だったなら、自分にヒントというか、何か良いアドバイスをしてもらえるのではないかな、みたいな感じで電話をかけました。
当然、それまで自分に語学力がないわけで。中学もろくすっぽ行っていない、そんなものなので、語学力がなくて、もう本当に苦労していたのですけども、そういう私の思った通りに面倒を見てくれて、友達のようにつき合いがあった先生です。これがもう本当に、これまでの人生で最初で最後のSOSということになるのですけども。この時にその先生の優しさとかを感じましたね。
で、大学に、2学期になって、また復学というか通い出して。で、その英文学の先生に挨拶に行きました。その先生が『もう長いつき合いなのだから、おごらせてよ』みたいな感じで、教職員食堂に連れていってくれて、天ぷらそばか何か分からないけれど、ご馳走してくれたのです。本当にその時のそばが美味しくて、ありがたくて、これ以上旨いものを食べたことがないなぁみたいな……。今でもそう思っています。」