「精神病の治療というのは、病状と日常生活が一体化しながら推移するのが特徴です。だから当然仕事をしながら治していくわけですけども。職場で、いちばん最初の、その(辛い)一つがあって。当然郵便局で仕事をし始めました。まったく仕事はできません。3か月経っても半年経っても同じでしたね、その状態が。そうするともう、はっきり言ってみんな現場の管理者は、渋い顔になりますよね。で、集まってきてみんなこう、ひそひそじゃないけど話しているわけですよ。もうそういうことは鮮明に憶えています。
もう一つは、大学の友人との仲が、休職中に、自分の病気が原因で崩れていく。そしてその親友が当時、自分のところに毎月のようにお見舞いに来てくれたのですけども、死ぬほど悩んで仕事に向かい合っていたことを(私は)全然知らなかった。で、今から5年前の12月、電話をかけてきて『これから死ぬんだ』みたいなことを言われました。『お前ふざけているのか!』なんて言いましたけれども、そのまま旅立ってしまいました。自分にとって一生涯の財産を失ったと思っています。
多くのさよならがあったのですけれども。まあ、そういうさよなら自体も淋しいのですけども、今現在そういう記憶がどんどん薄れていっているわけですね。まあ、人間は、過去にずっととらわれては生きていけないのですけども、こういう重要なことすら忘れていってしまう、本当に悲しいことだと思います。
そして、また、前後して、父の他界以来、私をずっと見守っていてくれていた母との仲が、口論する仲になってしまって。そして、憎しみあって、罵りあって、しまいには私自身が、母のことを殺してやりたいみたいな殺意まで抱いてしまった。そうなってきたことすべてが、本当に悲しかったですね。全部自分が、ま、病気のせいにしてはそれまでなのですけど、自分が本当にいたらないためにそうなっていったためで、本当に情けなくて悔しくて…。」
「最初は、これから二人で仲良くやっていきましょうみたいな感じでした。病院とか大学でお金をいっぱい遣ったわけですよ。それにもかかわらず『寿司食いに行こう』と連れていってくれたりして。で、郵便局に勤めだして、約10年間勤務していましたから、その間はそんなに仲が悪くはない。
休職したあとも、そんなに仲が悪くはなかったのですけども、だんだん、1年経ち2年経ちとなってくると、最初は心配するわけですよ。母親が70(歳)過ぎていましたから、自分がみてやれないでしょ?だからもう心配して言い出すのでしょうけれども、しまいにはだんだん憎しみ合うとか罵りあいになっていってしまって、ほんとに悲しかったですね。」
「病気を受容するということですか?これは、ま、初めての入院の時にも、『これも俺の人生なんだ』なんて思っていましたけども。それほど深く、受容したというわけでもなかったのですね。割り切ったのは約10年前の措置入院の時ですね。県の中核病院に運ばれました。で、自分が、『10年しか勤めていないんだ、たかが10年だぁ』みたいなことは言いましたね。
そしたら『10年っていうのは、はっきり言ってそんな簡単に退ける10年ではないんだ。精神病の人にとって10年というのは、すごく長いんですよ』みたいなことを言われて、『えー』みたいな感じだったのですけども、そのあとに続いたのが『病気になったことは、辛いことですよ。病気になったことで、やれなくなった仕事、人生もいっぱいありますよね。でも病気になったことでしか分からないこと、見えないものというのはいっぱいあるのです』と言われまして。その後、『そういったことを見ていくことのほうが重要で、ただ嘆いたって悲しんだってしょうがない、そういう人生、そのほうがよっぽど良いんですよ』みたいなことを言われました。
(そう)言われた時、はっきり言ってなんとも思わなかったのですよ。言わせてもらえば、『そんなことを言って、私達の悲しみというか苦しみみたいなものを、あなたは分からないでしょう?』みたいな感じはありましたね。
そんな時、入院して退院して、毎日朝から晩まで家に閉じこもって寝ているわけですけども、ま、幸運だったのですね、たぶん。大学2年の時から矢沢永吉のファンになっていたのです。毎日朝から晩まで聴いているのですよ。DVDだったのですけども、その中に、『鎖を引きちぎれ』というナンバーがありまして、この歌詞がまた渋いのですよね、本当に。『諦めた顔のまま老いぼれてしまうのかい、汗も流さないで』という歌詞がありまして、これを何回か聞いているうちに素直に思ったのです。『俺は嫌だ』と思いました。
で、思ったらどうしたらいいのということを、常に今度は考えていって、逃げてはいけないと。選択(肢)はありますよ、障害年金を受けて一生そのままこぢんまりと生きていけば生きていける。だけどそこには、はっきり言って諦めた顔しかないのではないかなぁみたいな感じがあって。だったら汗を流して、また仕事してみようか、また社会に復帰してみようみたいな感じになっていきました。
重要なのはやはり現実を現実として認めること。まあ認めたくないものはいっぱいあるのですけども、これから逃げていってはだめなのだと思いました。」
「休職(退職)して8年目ぐらいのことです。生前の母が、まだ、ほんとに、仲が良くて、ちょっと最期のほうは認知症が入ってきたので(すが)、まだまともな判断ができた時の頃なのですけども。
『本当にお前は良い友達に巡り会っているね』と話してくれました。その時、『良かったね』と言われたのですけど、ま、今もそうなのですけど、考えてみると、自分がその人に対して思っているよりもはるかに自分のことを思ってくれる人が、自分の周りにいっぱいいて、そして、自分を支えてきてくれたのだなぁと思います。そういった人達に何も、今、お礼の言葉一つも言っていないのですよね。そんな人間関係が本当に自分を支えてくれているのだと思っています。
さらに言うなら、そういう人達の中には社会福祉の関係者もいるわけですよ。今の社会福祉はだめだとか言うわけですね、私がね。でも、そんな私をまた許してくれて、見守っていてくれる人が大勢いるのです。本当に感謝しなければならないと思っています
自分の周りに対してサンキューという気持ちがずーっと続いたならば、私は、一生本当に幸せに生きられたというような人生を送れるのではないかなぁと思っています。郵政時代は職場が私を育ててくれて、仕事とともに病状も回復していきました。休職中、そして郵便局を辞職したあと、いろいろな人達が私に接してくれて、その中で私が、周りの世間に対して抱いていた考え方とか、そういうものはちょっとやはり歪んでいたのではないかといった感じで、仲間の力みたいなものを感じました。
今現在も(そう)ですね。昨年(2014年)の2月に健康診断を受けました。で、膀胱がんが疑われましたね。7月31日に、トマトジュースのような血尿が出て、自分でも、これはもうアウトかなぁみたいな感じで、本当に困り果てていたのですね。で、手をこまねいて、ただ、漠然といたわけなのですけども。そしたら、パーンと2万円出してくれて、『これで検査を受けて来いよ』という同じ精神障害者の長老がいるのですね。この長老の方というのは、生活保護費で生活している方で、自分のその保護費から捻出してくれたのです。その人が(から)、私に対して『まだ生きていてほしいんだ』という熱い思いですか、そういうメッセージを受け取りました。」
「約10年前に、休職中に、やはり淋しかったのですよ、私も。ずっと誰にも相手にされないで、もう家に3年とか4年とか5年とか閉じこもっていて……。出会いというか、仲間みたいなものが、まあ、話し相手がほしかったのでしょうね。で、そういう施設がありまして、そこに顔を出したのですね。そこで会った人です。生活支援センターです。」