統合失調症と向き合う

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福田一夫さん
福田一夫さん
(ふくだ かずお)
1969年(昭和44年)生まれの45歳(収録時)。大学4年生の時に発症し、3回の入院を体験する。大学卒業後、就職するが病気の再燃により退職。その後、大学院に入り勉学に勤しみ、現在は清掃会社に勤務している。勉強することが好きで、日本経営学会の一員として経営学の研究をしたり、放送大学などで聴講している。一人暮らし。収録時、襟元には日光彫りのループタイが結ばれていた。
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17コミュニケーションについて
Q.医療者とのコミュニケーションで困った経験はありますか

「まず主治医との関係です。措置入院で、続きで移って来た病院でのことなのですけども。その先生は何も聞いてくれないでほんとに、なんか話すと『分かっていますから、もういいでしょうね』みたいな感じで診察を終わらせてしまう先生でした。で、私には、その先生が、何が分かっているのかぜんぜん分からないのですね。先生に、時々暴言を吐いて、ふざけているとか、噛みつくわけですね。でも、何も変わりませんでした。

今思えばどうしてそんなことができたかというか、つないでくれたのか分からないのですけども、措置で入院した病院に(私が)電話をかけているのです。で、その時の主治医と話をして、30分とか1時間話したと思います。で、全部話(を)聞いてくれて、で、助言をいただきました。その助言の内容は忘れてしまったのですけど、その先生もいい先生なのだなあと思いますね。

で、それから数週間後ですね、話を(聞いて)くれない、その時の先生、主治医に、私なりの精一杯の皮肉なのですよ。『名医は見ただけで分かる』などと捨て台詞を吐いて、診察室を出ました。そしたらもう大変なことなのですね。その晩から薬が倍以上に増えてしまいまして…。やはりそれだけ飲まされてしまうから、体がだるくなって変になってしまって、えらい思いをしたのですけども。で、その数週間後に、また違った意味で体がおかしいというか、精神的に不穏だったのです。

で、その日にその先生が当直で泊まっていました。だから当然、診て、薬を処方してもらいました。そしたらものすごく効いたのです。次の日、快調だったのですよ。快調だから、思い切ってナースステーションに先生を見かけたので、『効いたよ』みたいなことを、合図したのですね。そしたら、その先生が、ほんと満面の笑みで、OKのサインで応えてくれたのです。その時に『この先生は、本当は良い先生なんだなぁ』と思いました。

で、私が郵便局を休んでいて、診断書を提出しなければなりません。その時に『あなたには郵便局に復職した時にいちばん遜色のない診断書を書かなければ…、書きたいんだ』というふうに相談してくれて書いてくれたのはその先生だけです。

で、この病院でも措置入院が解けて、また外泊をもらうわけですけども、この時がうつ病の症状が強かったので、炭酸リチウム等の抗うつ剤を飲んでいました。炭酸リチウムですから、血液の濃度を測らなければならないわけで、病院を出る前、帰院後に血液検査をしました。で、ちゃんとその処方された通りに、時間通りに全部飲んだのですけども、(病院に)帰って来た時になぜか知らないけれど、血液中の濃度が出なかったのですね。

そしたら呼び出されまして、『お前、こんなことやっているんじゃ、もう二度と家に返さないぞ、帰れないぞ』と脅されたのです。で、自分では(薬を)飲んでいましたから、じゃあ、母親に聞いてみろとか、飲んでいるんだぁみたいな感じで対抗したわけですよ。4〜5分ぐらいは言い合ったと思いますよ。『飲んでいない』、『飲んでいる』と。最後には、看護師長が分かったというふうに言ってくれて、その場は収まったのです。

これが医師とか看護師さんとの間でのコミュニケーションで困ったこと、嬉しかったことです。」

Q.看護師とのやりとりで心に残っていることは?

「嬉しかったことは、いちばん最初の入院の時です。いつも厳しかった看護師さん達が、当時の主治医が、『これで退院』と私に告げた時のナースステーションには満面の笑みがこぼれて、まるで自分のことのように喜んでくれたことです。この時に、この看護師さん達の本心というか本当の姿を見た思いでした。

それまでの私は、自分では強制入院だったと思っていましたので、いろんな看護師さんが接してくれるわけですけども、『ここは気違い病院なんだぁ』なんていうふうに言い放って。で、その看護師さんに悲しい思いをさせてきました。そういったことも反省しました。

まあ、この『気違い』っていう表現はいろいろ問題があると思うのですけども、この言葉を避けて通っては、われわれはいけないのだと思います。それは、気違いという言葉ははっきり言って隠語だし、現在の日本語で遣っては正しくない言葉だと思います。だけどもはっきり言って多くの人の心の中にはやっぱり息づいている言葉で、私が、例えば『精神障害者です』と言った時に、『あなた気違いですよね』みたいな感じで返ってくる時もあります。そういった言葉が多くの人の心にあるとするならば…。

また、大学院博士後期過程の指導の中で、『人が自然に思い浮かべること、感情は、差別でも偏見でもないんだ』と言うようなことを、自分(の)、持論でありまして、指導教授に話した時に、『それこそが、差別であり、偏見であり、人間の持っている本質なんだ』というようなことを諭されました。そういったこともあって、この、誰もが思っている、精神障害者に対する隠語である『気違い』という言葉を避けて通っては何も解決しないのだと思っています。」

Q.ご家族からやってもらって嬉しかった思い出は?

「まあ初めての入院ですね。この時は父も母も生きていましたから、落胆して残念がったし悲しかったし、それと同時にどんなことしても治してあげなければならないなんて決意したのだと思います。

それがいちばん感じられたというのは、初めて病院で外泊(許可)をもらった時ですね。廊下を通って待合室に出るでしょ。そのあと、今度電車に乗って降りて、で、家までの間、何も言わずに父のあとをついたのですけども、なんかこの時間が永遠に続いたらいいなぁ、続いてほしいなぁなんて感じでした。

で、その日の夜は、父が買物をしたのですね。夕食の買物をして、出てくるのはほんとに、『誰がこんなに食べるんですか』みたいな、まあほんとにありとあらゆるものと贅沢なものを買って来て、(テーブルに)並びました。この時にまあ、うちの父親が、またいつ帰ってくるか分からない子どもに対してしてやれることはこれしかできないみたいな、まあ、父親の思いを感じました。

で、退院ということになるのですけども。退院の日も、今度は母についてなのですが、その日は朝から、ものすごい嵐だったのです。ディルームにいたのですけども、午後3時を回りました。で、看護師さんが耳打ちするのですよ。『もう今日は退院できませんよ』と。でも、自分は知っているのです、分かっているのです。母親が絶対来ることを。その30分後ぐらいですね、雨に濡れながら、両手に赤飯の重箱を提げて、『遅れてすみません』と(母が)顔を出しました。はっきり言って自分は信じていたし、分かっていましたから、安心して待っていられました。

で、病室に帰った時にこれはまあ家族とは違うのですけれども、また感動的な場面で……。それまでは、私のことを敵視するというわけでもないのでしょうけども、『ふざけやがって、学生でこんなに遊んでいて』みたいな感じで、辛く当たっていた人がいっぱいいるわけですが、その人達がすべて私の部屋に集まってきて、『良かったな、もう二度と帰って来るなよ』と、みんな、口々に叫びながら。で、石原裕次郎の『粋な別れ』という歌がありますけども、これをみんなで合唱して送ってくれました。いろいろ感慨深いというか、素晴らしい経験だったと思います。」

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